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 駿府城の弥次喜多
駿府城の弥次喜多

 少し前に所用ではじめて静岡市を訪れました。泊まったビジネスホテルのマネージャーの話で近くに駿府城址があるのを知り、仕事が終わった後、さっそくそこに行ってみました。

大御所徳川家康が隠居してから住んだので知られる駿府城は、家康没後に火災で焼失しましたが、平成になってから巽櫓(たつみやぐら)と東御門が寛永年間の様式で復元されました。

ホテルを出て教えられた方向にしばらく歩くと、遠くに駿府城址が見えてきました。近寄ってみると、城楼はしっかりとした石垣の上に建てられており、その下には幅広い立派なお堀がめぐらされていました。

お堀に沿って遊歩道があり、そこに「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんの銅像が立っていました(上の写真)。

東海道中膝栗毛の作者十返舎一九は、府中(現在の静岡市)で下級武士の子として生まれたそうです。

東海道中膝栗毛の作中では、江戸神田の町人弥次郎兵衛は食客喜多八をつれて当時盛んだった伊勢参りのために上方に旅立ちました。その途中で弥次さん、喜多さんはこの府中に宿泊したという設定になっているということです。

お二方は大御所家康公のお膝元で楽しく過ごしているようですね。

       弥次喜多は    人気blogランキングへ
         駿府の堀に
           涼みおり


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(2018/08/29(水) 06:39)

 リンドバーグの墓
リンドバーグの墓
 1927年5月、チャールス・リンドバーグは自分が設計した単発機に乗ってニューヨークの飛行場を飛び立ち、34時間後、大西洋を渡ってパリのル・ブルジェ飛行場に着陸しました。

1929年に駐メキシコ大使の娘アン・モローと結婚し、翌年長男が誕生しましたが、1932年にその長男が誘拐され、殺害されました。

 その事件の後、リンドバーグは次第に人間不信から厭世的になり、太平洋戦争終了後は妻アンとともにハワイ・マウイ島に建築した別荘で暮らすことが多くなりました。

70歳を過ぎたころリンドバーグはがんに冒され、1974年夏、医者から余命がいくばくもないと告げられました。

リンドバーグは、病院で延命治療を受けるより愛するマウイ島で最後を迎えるほうを選び、8月にアメリカ本土を去ってマウイ島の別荘に入りました。

リンドバーグは直ちに自分の葬式の仕方を周囲に指示しました。墓はマウイの石灰岩を積み上げて作り、その中央に自名を刻んだ金属のプレートを置くことにしました(上の写真)。

マウイに着いてまもなく、リンドバーグは72歳の生涯を終えました。その葬式はマウイ古来の様式で行われ、島の4人のコーラスが「天使のお迎え」というハワイアンソングを唄って故人を葬送したそうです。

      雲の峰      人気blogランキングへ
        飛行士眠る
          墓の上


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(2018/08/25(土) 07:23)

 熊谷の「情熱マンゴー」
熊谷のマンゴー
 関東地方は7月末から8月にかけて連日35度前後の猛暑に見舞われました。
埼玉県熊谷市は群馬県館林市と並んで関東でもっとも夏の暑さが厳しい土地です。これら2都市が日本の最高気温をつける日も多いようです。

さて、その熊谷市のある農家が、世界的に人気の高い亜熱帯果実マンゴーを試験的に栽培しました。

 日本では温暖な沖縄、宮崎などでマンゴーを栽培していますが、熊谷は夏の気温はそれらより高いとのことで、立派なマンゴーが収穫できたそうです。

マンゴーの果実は大きいものは530グラムにもなり、糖度は約23度と沖縄、宮崎産よりずっと高かったということです(上の写真)。

そのマンゴーを試食した熊谷市長や熊谷青果市場の飯田栄一副社長は「本場南国のマンゴーと変わらない香りと甘さで、すばらしい」と絶賛したそうです。

      熊谷に     人気blogランキングへ
        マンゴー熟れぬ
          赤々と

猛暑で日本全国に知られる熊谷ですが、暑さにやられぱなしでは面白くありません。暑さを逆手にとって熱帯果実の栽培でも大いに名を上げてもらいたいと思います。

熊谷は内陸性気候で夏が非常に暑い反面、冬はなかなか厳しい寒さになります。マンゴーの果樹は冬季に気温が15度以下になるとダメージを受けるとのことで、専門家は越冬対策の研究が必要だと指摘しています。

しかし、熊谷は大消費地東京に車で数時間で行けるという地の利があります。熊谷で朝収穫した美味しいマンゴーをトラック輸送して午前中に築地のせりにかけられるのです。

熊谷、館林など猛暑で有名になった土地の農家の皆さんは、今度は熱帯果実の栽培に本格的に乗り出していただきたいと思います。


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(2018/08/21(火) 06:54)

 蓮の花
蓮の花

 私の郷里千葉県九十九里地方は、茨城県と並ぶ蓮根の産地です。蓮は、例年7月の末から8月のお盆のころにかけ、白またはピンクの直径20cmにもなる大きな花を咲かせます。

また、私の郷里では、その大きな葉や太い茎を利用してお盆の供え物を載せる台などを作ります。

東京で蓮の花が見られるところを探しましたが、不忍池、水元公園など数ヶ所しかありませんでした。京都などには蓮田がたくさんあるようですが、東京周辺には非常に少ないのです。

7月の末に帰省したときに、郷里の最寄駅の近くで昔蓮田を見かけたのを思い出し、駅から歩いていってみました。運がよく、蓮田にちょうど 見ごろの花が咲いていたので、大喜びで方々を撮影してまわりました。

蓮はインド原産だそうで、蓮の花はお釈迦様を連想させる独特のおおらかさがあります。仏教では、泥水から茎を出して清らかな花を咲かせるということで、蓮の花を尊重します。
お寺の仏像の多くは、蓮台という蓮の花をかたどった台の上に載せられています。

       蓮見舟      人気blogランキングへ
         葉かき分ければ
           紅い花

私が子供のころは、たしか家の近所に蓮を植えた田んぼがたくさんありました。しかし、それらは年々減少して行き、現在では私の実家の近くではほとんど見られなくなりました。
やはり、東南アジアなどから流入する蓮に価格の点で負けてしまったのでしょうか。



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(2018/08/17(金) 06:30)

 草津・避暑ホテル
避暑ホテル

 私どもは、毎年数回群馬県草津にある老舗ホテル「中沢ビレッジ」に保養に行っています。
数年前の8月6日から数日間行きましたが、ちょうど東京がその間35度を超える大変な暑さにみまわれたようで、私どもにとってはグッドタイミングとなりました。

中沢ビレッジのゴルフコース横にあるイタリアンレストランにはときどき天皇がおいでになったそうですが、お昼の時間帯はランチタイムメニューでスパゲッティなどが手ごろな値段で食べられました(その後、このイタリアンレストランは営業を停止しました)。

ホテルの周りの森を散策して心地よく疲れて、このレストランにきてビールとスパゲッティで軽い食事をしました。

ボーイの青年に草津のことを少し訊ねましたが、ほとんどなにも知らないようでした。どうやら彼は東京からここにきてアルバイトでボーイをしているようです。
高原のホテルやレストランで涼しさを楽しみながらアルバイトをするのが、学生たちの間で大人気だそうです。

周りを見ると、年配のご両親とその子供さんと思われる家族連れがかなりいらっしゃいました。家族同士で、同じ大きなテーブルについて、楽しく歓談しているようです。
昔、新聞の俳句欄で見かけた俳句を思い出しました。

      それとなく     人気blogランキングへ
        見合いのはこび
          避暑ホテル  日経俳壇


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(2018/08/13(月) 07:03)

 原爆鎮火堂
原爆鎮火堂

 かねてより私は、戦前生まれの日本人として、原爆による惨禍の象徴である広島・原爆ドームをぜひ一度は訪れなければと念じていました。

このたび所用で広島に行きましたので、仕事が終わってからさっそく原爆ドームに向かいました。

原爆ドームのすぐ近くに、慰霊塔という五重構造の高い塔がありました。慰霊塔は金属パイプと有田焼の陶板で造られた高さ12mの巨大な建築で、搭の基部には仏像が安置されており、その前には「鎮火堂」と記された金属板が埋め込まれてありました(上の写真)。

当時、学徒動員令により市内で多数の学生・生徒が働いていましたが、そのうち6000余人が被爆死したとのことです。この慰霊塔はそれら若人の死を悼んで建てられました。

原爆ドームの横には、元安川という美しい川が流れています。 原爆の白熱にさらされた人々は、水、水と叫びながらこの川に身を投じ、死んでいったそうです。

私には、この鎮火堂は、60年前にこの河岸を埋め尽くし、渇えを訴えながら亡くなった被爆者の方々を水で供養するお堂のように思われました。

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       原爆死者の
         求め聞き


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(2018/08/09(木) 06:37)

 三四郎池
三四郎池

 明治29年(1896年)、夏目漱石は、小説『坊ちゃん』のモデルとなった愛媛県尋常中学校の英語教師を退官、熊本五高(現在の熊本大学)の英語科教授として熊本に赴任しました。

この地で漱石は英国留学に出発するまでの約4年間を過ごしましたが、その経験が、その後書かれたいくつかの小説の中に生かされることになりました。

長編小説『三四郎』の主人公小川三四郎は、その熊本の五高を卒業して東大に入学するために上京しました。
小説中には
三四郎が東京で驚いたものはたくさんある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それから、そのちんちん鳴るあいだに非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。
と書かれています。

小説『三四郎』では、三四郎が電車を降りてから赤門を通って東大構内に入り、後に三四郎池と呼ばれるようになった池の周りを散歩したと書かれています。

旧加賀藩邸の庭園の池が東大に移管されて「ひょうたん池」と呼ばれていましたが、この小説に登場してから「三四郎池」と呼ばれるようになりました。図書館の裏のがけを石段で下っていったところにあります。

ふと見ると、池の岸辺を若い女性が団扇で涼をとりながら歩いてきます。明るく談笑しながら歩く姿に、三四郎は故郷では知らなかった新時代の空気を感じました。

      団扇手に      人気blogランキングへ
        美禰子歩めり
          池の端

 このどこか謎めいた雰囲気のある女性に、三四郎は次第に惹かれていきますが、新時代の女性美禰子は、三四郎に近づいてはまた遠ざかるという姿勢を繰り返し、三四郎の心を悩ませます。結局、美禰子は別の男性と結婚していまいます。

この美禰子のモデルは、「元始、女性は太陽であった」で有名な文芸誌『青鞜』の創刊者平塚らいてうであったといわれます。小説『三四郎』が新聞に連載されはじめてから4年後、らいてうは漱石の弟子森田草平となぞの心中未遂事件を引きおこし、世間を騒がせました。


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(2018/08/05(日) 06:31)

 相馬野馬追い
 1000年以上の歴史を持つ福島県相馬の重要無形民俗文化財「相馬野馬追い」が、7月28日から始まりました。現地では、現在も相馬家当主が野馬追いの総大将をつとめ、例年は騎馬隊約600騎、さらに鉄砲隊、槍隊、弓隊などが参加していたそうです。

今年も、騎馬武者となる人や馬の被災ダメージが残る中、伝統の継承を通じて災害からの復興を願う地元民の皆様の熱意により開催にいたりました。

世田谷区・馬事公苑では、毎年9月23日に馬や競馬を愛するファンへの感謝の意を表して「愛馬の日」を開催してきました(現在は馬事公苑は2020年に開催される東京オリンピックの準備のため閉鎖されています)。

例年このイベント「愛馬の日」には上記「相馬野馬追い」が出演し、盛大なパレードを披露してきました。

左の写真は、数年前の愛馬の日に撮影したもので、赤い胴着をつけた武者が旗指物を掲げて栗毛の馬に乗って走っています。相馬家騎馬隊の下級武士の役なのでしょうか。

きりりと鉢巻を締め、馬飾りをつけた馬を駆って、秋晴れの馬事公苑の走路にさっそうと登場しました。

俳人加藤楸邨(しゅうそん)は、子供のころ現在の南相馬市に住んでいたとのことで、次の俳句を残しています。

      駒とめて     人気blogランキングへ
        野馬追の武者
          水を乞ふ    加藤楸邨

騎馬武者として参加した方々の中には、今回の災害で家族を失った人もかなりいらっしゃるということです。
被災地のがれきの中から思い出の写真を見つけ、家族の供養のためにその写真を身に付けて騎馬武者として出陣したとテレビの画面で語った方がいました。


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(2018/08/01(水) 06:55)

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